10月の情報

<死線から生還した男の闘病記>
2004年10月

*青春時代*
1.幼少の頃

 昭和33年に大阪府東大阪市中小阪という町で私は生まれた。町は村と町工場が混在する今にして思えば不自然な町であった。当時の日本は高度成長を迎える前で、父親は私の出生と時期が重なり長年努めていた「鋳物屋」を退職してプレス工場を経営しはじめた。その頃は「中学卒業生は金の卵」ともてはやされて、田舎から都会への集団就職が盛んで従業員の人達と一緒に生活をしていた。1階が工場で2階が住居兼寮になっており、夜の食事は皆で一緒に食べていたが、カレーの日だけは子供は先に食べさせられた(子供カレー)のを覚えている。また私は生まれつき虚弱体質で運動会、遠足、プール等の有った日は必ず夜中に大暴れしたらしいが、自分では全く覚えていなかった。それで物心がついた頃から両親に「煎じ薬」や「赤マムシ薬」を飲まされていたが、まずくてとても飲める様なものではなく、飲んだ振りをして捨てたほうが多かった。

 ごく平凡な幼少期だったが、「悪ガキ連中」も沢山いてある時に一緒について行ったら市場に行きグループで万引きをしていた。私は一緒に行った同級生と「なんでお金を払わんでええんやろ?」と不思議さと好奇心で「俺らもやろうぜ」と言って(心では悪い事やろうな?)と思いながら、見様見真似でやってみたら別に何も問題が無かったので「明日もオヤツは食べ放題やなぁ」と言って別れた。

ところが世の中はそんなに甘くは無かった。その日いつもの様に寝ていたら、玄関で騒ぎが有ったので目覚めると警察官と母親が言い合いをしていた。さすがに「俺を捕まえに警察が来た!」と分かったが、怖くて布団に潜り込んで寝ている振りをしていたら朝になっていた。母親に「お前、昨日は何処で何をしてん?」と聞かれ正直に話したら、「もうしたらアカンで」と言われただけだった。後で分かった事だが「悪ガキ連中」は常習犯で芋ずる式に捕まったらしい。

連中は店員の目を盗んでのパクリを毎日場所を変えてしていたらしく、私達のやり方は店先のお菓子をどうどうと両手一杯にして持って帰ったらしいし、市場のおばちゃん達も私がどこの誰か分かっていて黙って見ていただけらしい。考えればその市場には良く母親と一緒に買い物に行っていたので、ある意味顔なじみだったのでバレテ当然のはずが、子供には理解が出来なかったのだろう。後はよく母親に箒で追いかけまわされ、最後には捕まり殴られた記憶があるから結構「悪タレ小僧」だったと思う。

 そして、幼稚園、小学校へと進んだが虚弱体質の上食べ物の好き嫌いが激しかった。特に小学校の時の「脱脂粉乳ミルク」と「豚汁」のまずさといったらとても食べられる代物では無かったので、給食の時間は最後の一人にいつもなっていたし先生にもよく叱られ、廊下でバケツを持たされたりしたものである。小学校3年迄は自転車の補助輪も外せない運動音痴だったので、当時流行っていたドッチボールでは逃げる事しか出来なくておてんば娘に守ってもらうのが常であったので、放課後はベッタン、ビー玉等で遊ぶ毎日で習い事もしなかった。もちろん勉強はした事が無かったが授業は受けていた記憶はあるが、人に自慢出来る事は何も無かったしそれを何とも思わない毎日であった。身長も小さく体育の時間は最前列で「前へ習え」の先生の号令の時にはいつも横に手を出していたが、悔しいとは思わなかった。

 小学校4年の時に私に転機が訪れた。きっかけはドッチボールをキャッチ出来たのが始まりである。最初はマグレと思ったがある程度の位置のボールはキャッチ出来るようになり、それから友達に頼んで特訓が続き1週間でクラスでは上手い方になれた。同時に自転車も補助輪を外せ変則機付きのに乗り換えて行動範囲が瞬く間に広がった。そしてプールでもクロールで50mを泳ぎ黒線をもらった。

自分でも何が何だかサッパリ分からなかったが、身長も伸び始めて生まれて初めて「前へ習え」が出来た時はちょっとした感動ものだった。5年になり担任の先生が変わり、生まれて初めて自分から質問をする様になり、成績も除所に上がり始めてきた。今にして思えば担任の先生の指導が上手だったのだろう。そして私の毎日の生活パターンが変化しはじめ、考え方や行動にも影響が出てきたのもその頃である。


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