<死線から生還した男の闘病記>
2、引越し
やっと人並みの生活が送れる様になった時に、私の人生を変化させる事が発生した。それは引越しである。当時は高度成長期で父親の経営する会社も軌道に乗り、資金面で余裕が出来たみたいだ。ある日曜の晩に「今日は大事な話が有るから布施へ家族で食事に行こう!」という事になり、我が家の行き着け(といっても年に何回かだが)の洋食屋に全員で行った。注文するメニューはいつも決まっていて、両親は適当、兄はビフテキ、私は鶏の腿焼き、妹はお子様ランチだ。そして食事中に母親から「八尾にいい物件が有るから土地を買って家を建てて引越しをしようと思うけど、お前らどうや?」といとも簡単に言ってくれた。当時兄は中学2年、私は小学校5年、妹は小学校1年だったが早急に決断も出来ないし「新しい大きな家で自分の部屋が持てる」の一言でコロリと行かされて次週の日曜に全員で現地へ見学に行く事になった。
その1週間での悩みは3つ有った。当時、私は屋上に自分で鳩小屋を建てて20羽程飼っていた事で有る。約3年間程飼っていたから引越しをしたら手放す事に決められていたからだ。また運動が得意となり勉強も少しは出来てきて友達がたくさんに増えたのに別れなければならない事と転校への不安だった。兄は最初から中学は越境で卒業の予定だったから余り意識はしてなかったみたいだし、妹は幼かったので転校の意味も解からない状態だったし、一番妹と遊んだのが私だったので私が居れば問題は無かったのだろう。引越し自体は歓迎する事だし、私の意見など無視されるのも解かっていたがやはり年並みに悩む毎日だったが、1週間はあっという間に過ぎた。
翌週の日曜は朝から天気も良く家族で見学に行った。小阪から八尾(正確には東山本という地名で信貴山の近くだった)迄車で20分位だったが、電車の場合は乗り継ぎが必要で1時間は掛かるらしい。
ドーナツ化現象の始まりで現地は第2造成地区だったが、廻りが田んぼだらけなのにはびっくりし、未だ区画整理中だったが新興住宅街なので今迄と違い、路地が無く道路の広さと敷地の広さ(といっても80坪だが)に驚いた。そして家に帰り図面を見せて貰い、私の部屋が2階に確保されてるのと、風呂が有り、庭も有る。庭が有ればビー玉遊びも出来るし問題は無いがやはり友達と離れるのは嫌で「俺も兄貴と一緒に小学校卒業するまで越境する」と言ったら、「妹一人にさせる気か?」と説教される始末だった。結局小学校5年の夏休みに引越しをする事に決まり、2学期からの転校生と決まった。
その前に飼っていた鳩を全羽山本迄父親に車で運んで貰い空へ飛ばし別れをつけた。最初は上空で10分程旋回して集団移動を開始したが、家に帰ったら全羽戻って来ていた。仕方無く鳩小屋を解体したり、友達に譲ったりしたが1月もすると居なくなった。
そして私の転校生活が始まった。事前に近所のPTAのオッチャンに説明は受けたが私にとっては「カルチャーショック」以外の何物でも無い。まずは登校が「集団登校」で班長が最前列で旗を持ち後は2列に並び最後尾が副班長。低学年もいるから小学校迄徒歩40分(2Km弱の距離だが)も掛かる。クラスに入ると男子は全員半ズボンとランドセル(小阪では高学年は夏でも長ズボンとボストンバッグが定番。)入った小学校が八尾では一番偏差値が高く授業にはついていけないしで踏んだり蹴ったりでまいってしまった。小阪時代の友達は引越し当時には数回は来たが、すぐに音信不通となったが山本で友達は1ケ月もすると出来た(子供は馴染むのが早い)し、授業にも少しずつ追いついていったが、YMCA、ボーイスカウト、リトルリーグとか訳が解からないのが沢山有った。一番驚いたのは「英語」だ。私が生まれて初めて接した事を半数位が知っている事だったが、小学生には必要が無い(勉強は学校だけで習い事には全く興味が無かったので、両親に勧められても断っていた)からと思い適当な毎日が続いた。
ソフトボールが盛んな市で私の住んでいる地区が小学校の代表となり地区予選に出たのは忘れられない。夏安みに毎日練習をして私はキャッチャーで6番。地区予選は山本球場という市営球場で観客席も有り八尾市の名物の一つである。私達のチームは寄せ集めでキャッチャーミットもプロテクターもマスクも無かったので、試合開始後に対戦相手にマスクとプロテクターを借りた。監督さんは競技委員会に説教されていたが、知らなかったらしい。その時点で緊張のためにピッチャーはストライクは取れないし、エラーは出るし全員が力を出せずに敗退したが、自慢できるのはこれ位の記憶しかない。そしてとなりの中学校に進学する様になったが、体力は毎日の通学の影響かどうかは解からないがかなりついてきたので、昔みたいにうなされる事は無くなったが、身長は少し伸びただけで入学時には前から3番目だった。
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